慣れ
仕事柄毎週のように新幹線に乗ったり、飛行機に乗ったり、長距離移動のための交通手段として公共交通機関を利用する。
もちろんコロナの真っただ中であろうと利用していた。
今は幾分コロナの脅威も薄まり、随分新幹線の利用客も増えた。
ガラガラだった自由席には列を成し、夕方ごろともなると立ちっぱなしで次の駅まで乗っていく人も少なくないように感じる。
指定席も2列なら大抵隣は空いてたし、3列なら1つ空けて窓際と通路側で座っていて、自然とソーシャルディスタンスが形成されていた。(なので東京からの某夢の国でデートしてきたであろうカップルのいちゃいちゃを隣で見せつけられる不幸もなかっただろう…)
一時ほどの脅威は無くなったにせよ、依然として感染リスクは残っているわけだが、前ほど密な状況を気にする人は少なくなった印象だ。
以前の様に人が外に出て密集する状況には世間が前より騒がなくなったという理由もあると思うが、自分的には人々が未知のウィルスに対しての恐怖に慣れてしまったようにも感じる。
自粛自粛で人々は我慢を強いられてきたが、我慢できていたのは感染した時のリスク、恐怖があったからだろう。しかしワクチンの開発が進むにつれて、コロナに対する理解と対抗策を手に入れると未知の恐怖は薄らいでいった。
今ではそのリスクをリターン(遊びたい、飲み歩きたいなどの欲求を満たすこと)が上回って外出の機会を窺っている人が多くなってきたのだろう。
つまりはこの状況に慣れちゃったというわけだ。
恐怖は未知から生まれ、理解することで慣れて薄まるのかもしれない。