新社会人となる大体5年前の自分へ

かれこれ5年ほど前の今日、4月の始まりの日のことを毎年この時期になると思いだす。

社会人という大人の仲間入りをするんだという意気込みと、不安と、希望を抱えて迎えたあの日。

あれからなんだかんだ5年以上の月日が流れた。

随分自分のいる環境は変わり、およそあの時の自分では想像もしない人生を歩んでいる。

しかし、あの日抱いた気持ちは今となっても忘れられない。

今回は昔の自分とこれから社会人となる人へ向けて今の自分が思うことを書いてみる。

 

環境の変化は暗闇の中を手探りで道を見つけるようなもの

 

今新社会人となった人たちはいろんな気持ちを抱いて新しい生活を始めるだろう。

自分もちょうど一人暮らしを始めていた。

会社に勤めるという環境の変化と、一人暮らしという環境の変化を同時にするのはそれなりに負担が多きかった。

今までの生活のなにもかもが変わってしまったからだ。

環境の変化とは常に孤独との戦いだ。

暗闇の中を手探りで進む道を一人で切り拓いていかなければならない。

学生の時と違って、導いてくれる人はもう誰もいないのだ。

 

始めての土地、初めてする仕事、初めて関わる職場の人間関係。

 

何事も初めてというのは必要以上に緊張するものだ。

それ故にあらゆることを真に受けやすい。

冗談を本気にすることもあれば、会社のルールを社会の常識だと思うこともあるだろう。

 

あらゆる先達の言葉が好し悪しを問わず導きになってしまう。

理不尽ですら、自分が付いていけないのが悪いのだと受け入れてしまう。

これが社会なのだと自分に納得させながら。

 

そして会社の先輩たちは進んでいける道をなぜ自分は同じように歩いていけないのか?自分の能力が低いからではないのか?

そんなふうに他の人と同じようにできるようにならなければいけないという気持ちがどんどん自分自身を追い詰めてしまい、気が付けば自分が壊れてしまうこともあるだろう。

会社という世界が自分の世界のすべてとなり、そこでうまくできなければもう世界から不要だといわれているように感じることがあるかもしれない。

 

しかし真に受けないでほしい

大体、社会を知らない状態であったとしてもおかしいなと思うことはおかしいことだし、それをおかしいと思えた人からその会社を辞めている。

だからそこに残っているのは大抵会社に洗脳された人間と洗脳する側の人間しか残っていないものだ。

そんな世界であればこちらから見切りをつけてしまったほうがいい。

地獄に住み続けたいという稀有な人を除いては。

 

 

ほかの人と同じようなことを同じようにできなくてもいい

 

自分だけ馴染めない、仕事についていけない。

そんなことがこの先いくらでもあるだろう。

もちろん仕事に慣れるには時間がかかることもあるものだが、それを苦しいと感じるのであれば、一度仕事に対して見つめなおしたほうがいい。

人には個々の特性がある。

コミュニケーションに優れる人、細かい計算に長ける人、寸分たがわず同じ作業がこなせる人、それぞれの長所と短所がある。

しかしながら就活というのは、本来の自分のそういった特性を隠し、もしくは取り繕い、採用のために自身をごまかして入社に至った人も多くいる。

そうなると必然的に自分の特性に合わない仕事を割り振られることもある。

このミスマッチが起きるともちろん仕事はしづらい。

つまり、能力云々の前に自分に合っていないのである。

足に合わない靴を履くのが痛いように、自分に合わない仕事というのは精神的に苦しくなってくる。

今一度合うものを考え直すのも手だ。

 

意外と生きるだけなら何とでもなる

 

これが今の自分から過去の自分に一番言いたいことだが、毎日吐きそうになりながら半分鬱みたいな精神で仕事をするならさっさとやめてアルバイトでもして生計を立てたほうがいい。

冗談抜きに、鬱になれば最悪死ぬ

鬱は死に至るが仕事を辞めたところで死にはしない。

幸い日本はまだまだ豊かな国なので時給950円のフルタイムのバイトでもしていれば生活はできる。

安易な退職は社会的に死だが、下手に鬱になって復職しても腫れもの扱いで職場的に死だ。

そもそもなぜ労働をするのか、労働の目的は究極的には生きるためだ。

生きるための手段で死んでしまっては元も子もない。

 

人生はみんな初見プレイ

 

何事も初めてのうちからうまくいくことは少ない。

多分先達たちも多くの失敗を重ねているが、さも最初からうまくこなしてましたよーみたいな涼しい顔して働いてるに違いない。

社会人数年やってきてる周囲にそんな人がちらほらいるから多分間違いない。

初めからパーフェクトを取りに行くのではなく、自分の目指す完成形を積み上げていくイメージのほうが何かとうまくいくだろう。

 

まぁ、5年前の自分よ、お前の積み上げたかった経験とはずいぶん違うものが5年後積みあがってるんだけどな…

震災に思うこと

東日本大震災発生から11年

その日のことはよく覚えている。

自宅で深刻そうにテレビを見つめる母親に気が付かずに呑気にその日の晩飯について尋ねていた。

「唐揚げだけど、そんなことよりこれ見てみ」

そういわれてテレビを見ると、まさに津波が家を押し流す瞬間の映像だった。

 

正直現実味が薄かった。

自分が住んでいるところはほとんど揺れていなかったし、東北地方がひどい状況になっていることもその時の自分からしてみれば東北なんて行ったこともない見知らぬ土地の出来事だった。

ネットやテレビのニュースからその悲惨な状況は連日伝えられた。

しかし自分にとってはそれは「情報」でしかなく、「現実」としてとらえることはできなかった。

 

その年に学校の催しで福島、宮城出身の同学年と学生との交流があった。

状況が状況なので「大変でしたね、頑張ってください」と伝えた。

すると若干困惑したような表情で「ありがとうございます」と返してくれた。

その時なんで困ったような顔をするのか自分には分からなかった。

 

時が経ち、まさに被災した地域で仕事をする機会があった。

10年もたってインフラ等は復旧していたが更地になったままの土地もちらほらあった。

地元の人たちは意外と事も無げに自分の家が流されちゃって家電が全部パーになったと笑いながら話す人や、実際に津波に流されかけたなんて話す人もいた。

その人たちがどんな思いを胸に秘めているか、他人である自分に推し量ることはできないが、震災に対する地元の人たちの反応も人によって様々に感じたのが印象に残っている。

 

今自分が思うのは、結局のところ、痛みや苦しみというのは当事者でしか抱えられないということだ。

実際学生時代の自分も被災者に対して「大変だろう、かわいそう」そんな漠然とした感情を持っていたが所詮は対岸の火事だ。

得た「情報」から推察しているに過ぎない。

あの頃、支援物資が現地のニーズと合わずに持て余すというニュースも流れた。

情報だけで判断した無責任な同情心がさらに当事者たちを苦しめることもある。

 

結局、実際がどんな地獄だったかその辛さは当人たちだけのものなのに、分かった風な行動がより当事者たちを苦しめることがあるのだと知った。

だから大変ですねと声かけたあの日の相手の学生も、平気な地域の何も知らない人間からそんな言葉をかけられたところで白々しく感じただけだったのだろう。

 

「情報」から得た知識で苦しいだろうという先入観でみてしまいがちなこと、実際に経験していないことに共感する難しさ、他人の痛み、苦しみに寄り添う仕事を一度は志した人間としてはこれらの経験はいつも考えさせられる。

習慣 -続けることの難しさとメリット-

前回、習慣についての記事を書いた。

自らも習慣づけるという難しさに直面しているところではあるが、引き続き習慣について調べたことを書いていこうと思う。(まずは諦めずにこの記事を書いている自分を褒めたい)

 

良い習慣と悪い習慣があるというのは前回述べたとおりであるが、大抵の人は悪い習慣はすぐ習慣づくが、良い習慣を身に着けようと思っても気が付けば三日坊主に早変わりしていることだろう(もちろん自分含む)

では何故習慣は身につかないのだろうか?

調べたところによると習慣として続かない要素として、

  • モチベーションが続かない
  • 立てた目標が高すぎる
  • 完璧にこなそうとする
  • 本当に望んで実現させたい目標ではない

これらの要素が理由として挙げられる。

 

思い当たる節が多すぎてパソコンを閉じようかと思った。

 

そもそも、何かを初めてそれを続けようというのは、「何か自分にプラスになることを身に着けたい」という向上心からくるものだと私は考えている。

目標を立て、それをこなした先にある、ある種の成功を望んでいるのだ。

その為良い方向に事が進んでいるという実感が大事になる。

しかし現実には可及的速やかな効果を発揮するようなことは少ないのだ。

 

体重は盆と正月を過ぎれば簡単に増えているのに、減らすとなるとランニングを2,3日続けたところで効果は出ない。…そもそも朝早起きするというハードルが高い。

毎日日記を書こうとてもなんとなく日記帳を開くのが億劫になったり、始めたデアゴスティーニの内容はがっつり極めたいと思えるほどの内容ではなかったかもしれない。

と、言ったように習慣化するには続かなくなる要素をできるだけ排していくことが大切になる。

 

逆に考えてみれば、ある程度続けたことで体重が減ってくればランニングは苦痛からやりがいに代わるし、書きたいと思った日に書きたいこと綴るようにする日記なら気が付いたら書いてるくらいになるだろう(Twitterがまさしくそうだったりしないだろうか?)

 

習慣化するのには

何故それをするのか

何故そうしたいと自分は思っているのか

という必要性

どれくらいだったら苦にならないのか

最初から意気込まずに無理なく踏み出せるのはどの程度か

という適度な目標設定

さぼり癖があるのか

形から入って満足してしまわないか

人から言われたほうがやる気が出るのか

という自分の特性の理解

以上が習慣化するうえで大切な要素となってくる。

 

今回も自己啓発本やらネットに溢れるありがたいお言葉を参考に調べた完全に他人の意見の拝借となるが、最後に心理カウンセラーらしい観点から習慣について言わせてもらうと、正しい習慣作りは自己効力感自己肯定感の向上につながる

自分で目標を定めて乗り越えることは自信に繋がり、人生で起こりうる困難な問題に対しても前向きに取り組めるようになり、自分は「できるやつ」なんだと自認できるようになってそれが積極的に自分を認められるようになる。

 

実は習慣が身につかない人は挑戦を恐れる自己肯定感や自己効力感が低い人によく見られる。

目標を掲げ挑戦するも途中で挫折すると、やっぱり自分はダメなんだと自己効力感が下がり、徐々に物事に挑戦しなくなってしまう。

 

つまり習慣というのはそんな自分を信じる力を養える経験が得られるメリットを秘めているのである。

自己効力感の類義語に‘‘self-esteem‘‘「自尊感情」というのがあるが、自分には物事を達成する能力があると信じられる力は高ければ高いほど、実際に達成できてしまうという研究結果もあるくらいだ。

 

習慣一つ身に着けるだけでこんなお得な能力も得られるなら、一度で二度おいしい。

ぜひとも私もこのブログを習慣化していきたいものである。

 

願わくば次の更新が一か月後とかになりませんように…

習慣

体重計に乗った時、思わぬ増量具合に朝のランニングを決意したり、新年や新生活を迎えるにあたり、新しく日記を書こうと意気込んだり、または新しい趣味を始めようデアゴスティーニの創刊号を購入したり、様々な新しい何かを始めるという人は多いだろう。

しかし、三日もすればランニングウェアは押し入れに眠り、日記帳は一週間ほどの記述を最後に空白でその役割を終え、数か月の後に未完成の謎の物体が棚の上に鎮座するだろう。

何かを始めるのは容易く、それを続けるというのは相当の労力を必要とする。(かくいう私も一か月ほどこのブログを放置したし、その昔作ったyoutubeチャンネルはいつ更新したのか記憶から消えてしまっている。)

何かを続けることが定着してきたことを習慣と呼ぶ。

 

今回はそんな私も持ちえない習慣について話そうと思う。

 

そもそも何かを始めるということ決めるのは、脳にそれなりのエネルギーを要求する。

朝のランニングも新生活の日記も何か始めるきっかけがあることが多い。

なんとなくで早起きしてまで走りこんだり、出費を増やしてデアゴスティーニを買う人は少ないだろう。(もちろんいるかもしれないが…)

 

そもそも脳はそのエネルギー消費を嫌い、なるべく節約しようとするため、繰り返し行うことは考えるまでもなく実行できるようパターン化してしまおうとする。

そのパターン化こそが習慣と呼ばれるものである。

 

なんとなく無駄にも思える行動を繰り返し、なんとなくやってしまってることはないだろうか?

朝起きたらタバコに火をつけていたり、作業前にTwitterを開いたり、寝る前だというのになんとなく間食をしてしまったりと、意識はしていないが決まった特定の行動を繰り返すということがあるはずだ(筆者の経験に基づく主観です)

前述の習慣はろくでもない習慣の一例だが、ヒトの脳には確かに決まった行動を繰り返してパターン化する性質がお分かりいただけただろう。

 

怠惰?惰性?それもそうかもしれない。

しかし大多数の人は飯を食ったら、「よし!今から歯を磨くぞ!」と強い意志を固めなくても歯を磨くだろうし、大体決まったタイミング、時間で風呂に入るだろう。

それもまた習慣だ。

 

悪いことが習慣づけばもちろん悪い方向に堕落していくが、良いことが習慣づけば良い方向に向上していくのは間違いない。

しかし悲しいかな人間は楽な道(いわゆるマイナス的な)は簡単に習慣づくのに、険しい目標的なプラスの行いはなかなか続くものでないのが現実…

しかし心理学者のカール・ロジャースは言いました。

「人間(生物全般)には潜在的自己実現傾向がある」と…

つまり、我々人間は前向きに進んでいこうとする傾向が最初から備わっているのである!

 

だから、なかなか習慣化できなくても諦めてはいけない。

むしろその習慣化しようとした気持ち、そう思い立ったことを自体を認め、称えよう。

 

さて、じゃあどうやったらうまく習慣化できるかだが、一つは目標を高くしすぎないこととのことだ。(巷に溢れる自己啓発本調べ)

なるほど…

私も習慣化しようと思って書き始めたこのブログを放置して、やっぱり書こうと意気込んでいたところだ。高い目標は良くない。

というわけで今回はここまで。

習慣化のコツは適切な目標設定

今日は一筆書いたことを褒め称え、布団に向かうとしよう…

この続きをどうか明日の自分が書いてくれることを祈りながら

 

クオーターライフ

正月が過ぎ、気が付けば一月も半ばを超えた。

年始特有の抱負や今年はあれこれ挑戦するぞという勢いも失速していつも通りな日々に戻る人々も現れるころだろう。自分もその一人…

新年を迎えると、今年は昨年できなかったことや新しいことに挑戦して、昨年とは違う一年にしたいと考える人も多いはずだ。

大体は昨年までの現状に満足していなかったり、今年も去年と同じように過ごしてよいのだろうかと不安を持った人が新しい目標を打ち立てているように見える。

今やることが決まっていたり、現状に満足している人たちは今更新しい目標をわざわざ立てずとも今ある幸せ、充足感を続ける方向に努力するからだ。

 

20代も半ばを超えてくると、

現状に不満→このままでいいのか→違う道を模索しよう→結局現状に妥協する

このサイクルを繰り返している人も多いのではないだろうか。自分もその一人…

 

現状の生活をこのまま続けてよいのか人生に多少なりとも悩み、幸福感が低迷している人たちにこのサイクルが見られる。

労働環境に満足してはいないけど転職するでもないとか

一方で年齢を重ね、自己実現に程遠い現状に焦燥感からくるジレンマを覚えることもあるだろう。

このような大学を卒業して、入社した会社にも慣れ、社会人として一息つく頃である20代半ば過ぎに不意に訪れる、謎の危機感のようなものをクオーターライフ・クライシスという。

 

ピーターパンシンドロームと同じような年齢に相関性のある心理傾向の一種で、特に近年若年層に増えてきているという。

インターネット、SNSの普及に伴い、自分と同世代の成功、きらきらとした生活が目に入りやすくなったことや、不確実性の高い現代社会がこの傾向を助長している。

インスタなどで同世代がきらきらとした生活模様を投稿していたり、ツイッターで独立起業した人が成功して羨むような姿がタイムラインに流れてきたりして、自分と比較して何とも言えない気分になったことはないだろうか?

もう少し身近な例だと、20代半ばからは仲間内でも結婚報告や、部下を持つくらい出世した友人も出てくるだろう。

そういう姿を簡単にネットを通じてみることできるようになった結果、この傾向が増加しているという。

 

特にこの傾向は意欲の強い人ほど陥りやすく、グリニッジ大学のオリバー・ロビンソン氏曰く、クオーターライフ・クライシスは、五つのフェーズに分けることができる。

 

フェーズ1

仕事や人間関係において、自分がした選択により閉じ込められているように感じる

フェーズ2

そのような状況を問題視し、ここから抜け出さなければという思いが募っていく

フェーズ3

仕事を辞めたり、良くない人間関係を断ち切ったりして、不自由さの原因から離れる

フェーズ4

ゆっくりと着実に、人生を再スタートする

フェーズ5

自分が関心を持てることに対し、熱意を持って取り組むようになる

以上がクオーターライフクライシスの流れである。ネットニュースのコピペだが…

 

調べたソース下でも述べられていたが、この傾向に陥らないようにするにはまず他社と比較しないことが大切だ。

それどころか、まず自身の不安をなくし、幸福を求めるならまず他人と自分の人生を比較するべきでない。

かの仏陀思いわずらうな。なるようにしかならんから、今をせつに生きよと言葉を残しているし心理的にも過剰な比較は自身の幸福を遠ざける。

 

ようは他人と比べて変に焦るくらいなら、自分と向き合って今やれることをやろうということである。

 

隣の芝は青く見えるという諺がある通り、人の幸せそうな姿は目につくものだ

でもよそ見で自分の芝が荒れ放題では本末転倒である。

一年が始まってまだ半月。

今年をより良いものにしようとするならばまずは自分との対話を大事にしたいものだ。(なお私は対話の席に自分が着いてくれない)

年明け

年が明けた。

年末年始をともに過ごす友人の集いも、徐々に家庭を持ったことで減っていくことに一抹の寂しさを感じる年明けとなった。

これも時の流れ。

人生には定期的に今まで関わってきた人たちとの交流が疎遠になっていく時が訪れる。

時間と共に進むべき道が変わり、環境が変わり、生活が変わり、意識が変わる。

その人生の流れの速さは一人ひとり違っていて、その流れのたどり着く先も違う。

その時間と向かう場所が違っていけば、自ずと今までの人間関係とは切り離されていくのだろう。

 

ずっと同じであり続けることはできない。

居座れば時の流れに置いて行かれる。

だが自分は果たしてどこに向かうのがよりよい人生へつながっていくのか。

それを考えて歩みだす一年にしたいものだ

 

クリスマス

世の中が年末特有の浮かれ具合とクリスマスの幻想的なイルミネーションに飾られた雰囲気の中俺は九州の某地にいた。

地元も地元から離れたこの場所もクリスマスムードは変わらない。

コロナの影響はどうした??

オミクロン株の脅威は残されているぞ?

男女間のソーシャルディスタンスがゼロ距離どころかマイナスになろうとしてないか?

 

クリスマス、子供は早く寝ないとなぜか翌日両親が寝不足になる不思議な日。

サンタのプレゼントが枕元に届いた初めての記憶、プレゼントが現ナマと自転車のカタログだったのを覚えている。しかも英語のメッセージカード付

そりゃぁ信じたね、確実にサンタは存在すると以後5年間はネタバレを食らうその日まで信じ続けた。

人を信用させるのに必要な要素はなんかそれっぽい『すごさ』

つまるところ権威

心理学の世界では後光効果なんて呼ばれる力は割と無視できない力を持つ。

胡散臭い宗教もろくろ回すポーズでインタビュー受けるエリート起業家も、関りがない他人でもなんかすごそうというイメージで人の信頼を得ることができる。

幼き日の自分も両親が当時未知の言語の英語を使えるなんて思ってなかったし、そのなんかすごそうな英文のメッセージカードだけで5年間も信じさせることができた。(単に疑うことを知らなかっただけとも言えるが)

まぁ実際は英語なんて義務教育で習うレベルだし、サンタはいなかったわけだが…

 

今宵はクリスマス、世の中の彼氏彼女が一夜を過ごす中でお互いのなんかすごそうと思えていた部分が聖夜の光のもとに暴かれないことを谷の底から願おうではないか。